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【安田義定】地方の一武士から遠江守、大内裏守護まで上り詰めた男!

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安田義定(イメージ)。甲斐源氏から起こった武士である。 【安田義定】地方の一武士から遠江守、大内裏守護まで上り詰めた男! 安田義定、甲斐源氏を率いる武士となる 安田義定、遠江守と大内裏守護を補任する 安田義定、一ノ谷の戦いでの絶頂期から凋落する 安田義定、甲斐源氏を率いる武士となる 甲斐源氏の棟梁・武田信義。安定と共闘した。 安田義定の誕生 長承3(1134)年、 安田義定 は甲斐国で甲斐源氏の棟梁・ 源義清 (あるいは 源清光 )の四男として生を受けました。 甲斐源氏 の一族は、甲府盆地の各地に進出して勢力を拡大していました。 義定も山梨郡八幡荘に進出。安田郷を本貫とする安田氏の名跡を継承して安田義定と名乗ったと思われます。 所領は八幡荘や牧荘や安多荘に及び、笛吹川流域の峡東一帯に勢力圏を築いていました。義定は保田山の妙音寺に館を構え、本拠地としています。 安多荘も保田山も「安田」につながり、義定の苗字の由来に近い部分があるので興味深いですね。 波志田山の戦いで大勝利を飾る やがて甲斐源氏の一族も、源平合戦に巻き込まれる日が訪れます。 治承4(1180)年、 以仁王 ( 後白河法皇 の第三皇子)は 平家 打倒の 令旨 (命令ぶ文書)を全国の源氏に発出。摂津源氏の棟梁・ 源頼政 と共に挙兵に及びます。 令旨は東国にも届き、平家方に対する武力放棄が始まりました。 8月、伊豆国では 源頼朝 が 北条時政・北条義時 らと共に挙兵。しかし石橋山の戦いで平家方の 大庭景親 に敗れてしまいます。 甲斐国にも令旨は届いており、頼朝方に加わった武士もいました。このため平家方は危機感を抱き、 俣野景久 (大庭景親の弟)や駿河目代(代官)・ 橘遠茂 らが甲斐国へと出兵します。 このとき、甲斐源氏の中で最も激しく挙兵に傾いたのが安田義定でした。 義定は石橋山の敗報を聞くや、工藤氏や市河氏と共に救援に出動。平家方の軍勢と 波志田山 で衝突し見事に撃退しています。 義定は甲斐源氏の誰よりも早く戦に参加。 源平合戦において誰よりも早い勝利 を挙げています。 駿河国に進出し鉢田の戦いで平家方の大将を討ち取る 安田義定の活躍によって、甲斐源氏の多くは源平合戦に関わっていくこととなります。 大河ドラマ『 鎌倉殿の13人 』にも登場する甲斐源氏の棟梁・ 武田信義 がいますよね。信義は義定の甥っ子(ある

【安田義定】子孫たちは源平合戦の後に栄光から転落!

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安田氏の家紋「追州流」   【安田義定】子孫たちは源平合戦の後に栄光から転落!  安田義定の子孫【嫡男・安田義資の栄光と滅亡】  安田義資の子孫【粟屋氏となって明治維新に貢献する】   安田義定の子孫【嫡男・安田義資の栄光と滅亡】 一ノ谷図屏風。義資も随行していたと考えられる。 安田義定の嫡男・安田義資の出生 甲斐源氏の 安田氏 棟梁・ 安田義定 は、 源平合戦で縦横無尽の活躍 をしています。義定の子孫たちは、どのような境遇にあったのでしょうか? まずは嫡男・ 安田義資 について見ていきましょう。義資は、安田義定の嫡男として生を受けた人物でした。通称は「田中太郎」と称しており、甲斐国山梨郡田中郷の発祥であると思われます。太郎ということと、のちの処遇から 正室所生の長男 であったようです。 父の義定が長承3(1134)年の出生です。当時の出生周期が20〜30年だとすると、子の義資はおそらく仁平4(1154)年から長寛2(1164)年前後の生まれだと推察されます(ざっとですが)。 義資、越後守に任官する 文治元(1185)年4月、平家一門は壇ノ浦の戦いで敗北。安徳天皇や平時子ら多くが海中に身を投じ、一門は滅亡します。 5年近くに及んだ源平合戦はここに終結。特に平家一門に戦功を重ねた武将たちは厚く処遇されることになりました。 特に戦いに著しい功績があったのが、源頼朝の弟である源範頼・源義経らと、甲斐源氏の安田義定です。 おそらくは嫡男の義資も、父・義定に随行して戦に赴いていたことが予想されます。このことから、安田義資も 論功行賞の対象 となっていました。 同年の8月、安田義資は 越後守(越後国の長官国司)に叙任 され 従五位下 という位階も与えられました。朝廷の位階において五位以上は「殿上人」と呼ばれ、清涼殿に昇殿することが許される身分です。 安田義資は武家社会だけでなく、貴族社会でも一定の地位を築いたことになります。 既に父の安田義定は遠江国を与えられていました。義資の越後国と合わせて、 安田氏は二カ国を支配 する武士となっています。 頼朝から絶大な信頼を受けていたことは確かなようです。 父・安田義定と共に奥州合戦に出陣して戦功を立てる 源平合戦の終結は、同時に武家社会において新たな対立の始まりでもありました。 戦後処理や朝廷との距離を巡り、源頼朝は弟の義経と対立。つい

【安田義定】父が二人いたから、源平合戦で甲斐源氏の名を轟かせた!?

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  安田義定の父は源氏名うての武者だった。 【安田義定】父が二人いたから、源平合戦で甲斐源氏の名を轟かせた!? 流人の身から甲斐源氏の棟梁となった男【源義清】 常陸国の全武士団を敵に回した男!?【源清光】 安田義定の父?それとも祖父だった?【源義清】 義清神社(ウィキペディアより)。 承保2(1075)年、源義清は甲斐源氏初代当主・源義光(新羅三郎)の三男として生を受けました。生母は甲斐守知家(実)=源仲宗の娘です。幼名は音光丸と名乗りました。 義清の周囲には、名だたる源氏の武士たちがひしめき合っていました。伯父には清和源氏の棟梁である「八幡太郎」こと源義家がいます。 長兄・義業は、常陸国久慈郡佐竹郷に土着。常陸源氏及び佐竹氏の家祖となった人物でした。 父・義光は常陸国那珂郡武田郷に土着しており、義清自身は「武田冠者」と称するようになります。 大治5(1130)年には、嫡男・清光が常陸国の平盛幹らと土地紛争を開始。翌天承元(1131)年には勅勘(天皇の勅命による勘当。出仕の差し止め)を受け、義清親子は甲斐国・市河荘へ流罪となりました。 義清らは甲斐国巨摩郡に土着。長承2(1133)年には市河荘の荘司(荘官)となっています。 翌長承3(1134)年には 安田義定 が誕生。義清か清光が父かと思われますが、どちらの可能性もあります。 やがて義清らは多麻荘の若神子(わかみこ)に本拠を移転。しかし義清は隠居したのか、久安元(1145)年に市河荘で病没しています。 義清は甲斐国を拠点とし、甲斐源氏の基礎を築いた存在となりました。 末裔からは武田氏(甲斐源氏の棟梁・武田信義を輩出)を筆頭に、南部氏(江戸時代の盛岡藩主)や小笠原氏(信濃源氏)が出ています。 安田義定の父か、それとも兄か?【源清光】 源清光が安定の父と考えられる。 天永元(1110)年、 源清光 は武田冠者を名乗った源義清の長男として生を受けました。生母は源兼宗の娘です。通称は黒源太と称します。 父の義清は常陸国那珂郡にある武田郷に土着した一族です。清光も武田郷で生まれ育ち、 血気盛んな若武者 に育っていきました。 やがて清光は常陸国において、土地争いを展開します。 大治5(1130)年、清光は伯父で常陸源氏の源(佐竹)義業の一族と抗争。源氏の同族同士での悶着でした。 義業は常陸平氏で常陸国 大掾 (第三席の国司)